syakasyaka48的見解

見た映画や読んだ本の感想を書いています。

謹賀新年

ザ・日本のお正月

少し遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。

昨年本格的に始めたこのブログですが、5月の終わりに更新してからずっと放置していました。

一度間が空いてしまうとなかなか再開できないものですね。

今年は最後までコツコツと更新し続けたいと思います。

 

 

映画『トゥルーマン・ショー』感想

トゥルーマン・ショー (字幕版)

タイトル 『トゥルーマン・ショー

点数 4.0/5.0

・最初からネタバレ

・「トゥルーマン・ショー」の視聴者と私

・映画を見ている自分を思い出した

 

映画『トゥルーマン・ショー』を見た。

有名な映画と言うこともあって、なんとなく内容は知っていた。

そのため、もしかしたら楽しめないかもしれないと思いながら見始めた。

 

見始めると、いきなりネタバレから始まって驚いた。

これは「トゥルーマン・ショー」という番組なんだと最初から説明が入る。

もちろん、何も知らない人が見ればすぐには明確な確信は持てないかもしれないが、それでもなんとなくわかるようになっていて、重要な部分が隠されてはいない。

この作品の面白さの根幹にある設定をさっさと紹介して、それでも面白い作品をつくれるのかと私の期待はあっという間に高まっていった。

 

私が見ていて面白いなと思ったところは視聴者たちの存在。

劇中で主人公トゥルーマンの行動は、すべて劇中の「トゥルーマン・ショー」という番組として放送されている。

その番組をバーや自宅、職場で見ている視聴者の姿がたびたび映される。(なぜか日本人が家族で見ているシーンもある。)

トゥルーマンの姿を見ている間は、私も彼ら視聴者と同じところに視点があり、つい先ほど「トゥルーマン・ショー」を見始めた新参の視聴者なのだ。

 

だが、視聴者の姿が映し出されると、ハッと我に返り、さらにその外側にいる自分の存在を思い出させられる。

トゥルーマン・ショー」とその視聴者、そしてそれをさらに外から眺める私。

こんな私自身の視点を感じさせられる作品は初めてで、なんとも不思議な感じだった。

 

あともう1つ面白かったシーンがある。

途中で番組の生みの親であるクリストフと、昔トゥルーマンに本当のことを言おうとした女性シルヴィアが電話で言い合うシーン。

トゥルーマンを開放すべきと主張するシルヴィアとそんなことにはまったく賛成する気のないクリストフ。

彼らの言い合いの間も、もちろん「トゥルーマン・ショー」は続いていて、のんきに食事をするトゥルーマンの姿が右上のワイプに映し出されている。

この画面の手前の2人と、右上のトゥルーマンの差に、迫真のシーンであるのに笑ってしまった。

 

そして最後に、トゥルーマンはこの番組の世界の外へと出ていく。

それを拍手喝采で見送る視聴者たち。

けれども、この映画はここでは終わらない。

つい先ほどまで拍手を送っていた視聴者が、あっという間に興味をなくしてしまって次の番組を探し始めるところで終わる。

 

この最後にはガツンと来た。

少し前の映画だから、ここで揶揄しているのはテレビの視聴者なのだろう。

ところが私はこの作品をNetflixで見ていた。

ネットではテレビよりもさらに自由に、好きな作品を好きな時に見ることができる。

この『トゥルーマン・ショー』を見たのも、ちょっとした娯楽としてなのだ。

この作品を見た後には、また次の作品をさっさと見るだろう。

視聴者たちよりももっと自由で貪欲な存在。

そんな自分を指摘されているみたいでなんだか恥ずかしくなった。

 

この記事を書いてこの作品を見たことの価値を高めることが、せめてもの罪滅ぼしだ。

映画『遊星からの物体X 』感想

遊星からの物体X (字幕版)

タイトル 『遊星からの物体X

点数 4.2/5.0

・広大な雪原が浮きだたせる孤立

・まじまじと見せつけられる謎の「物体」

・思っていたよりも高度な戦い

 

映画『遊星からの物体X 』を見た。

この作品も前々から見ようと思っては3年間くらいマイリストに眠っていた作品だ。

 

この作品のように、孤立した人間たちがモンスターに襲われるという作品は多い。

似た作品では、『エイリアン』が真っ先に思いつく。

あちらは宇宙で、こちらは南極。

どちらも広大な世界が、登場人物たちの孤立をより強く印象付ける。

 

そんなことを考えたのはヘリコプターで登場人物たちがノルウェーの基地に向かうシーン。

後ろに広大な雪原が広がる中をヘリコプターが飛んでいく。

そんな何もない世界が登場人物たちの孤独をより強く感じさせ、これから訪れる恐怖を浮きだたせていた。

 

 

登場人物たちをつぎつぎと襲う謎の「物体」。

出てくる場面ではそのグロテスクな姿がまじまじと映し出される。

確かにグロテスクであまり見ていたいとは思わないのだが、でもあまり怖いとは感じなかった。

当時はともかく、今ではありふれたデザインでさんざん似たような姿のモンスターを見てきたからだろうか。

「グロテスクさ」と「恐怖」は別物なのだななんてことも思った。

ただ、腹が口の形にガバッと開くシーンは怖かったな。

 

そんな謎の「物体」に対して、登場人物たちは思っていた以上にしっかり対処していく。

基地にいる人たちはおっさんばかりで、全然違う作品だけれども『南極料理人』を思い出した。

しかし、そんな人たちも「物体」が生物に同化できると分かると互いに疑心暗鬼になっていく。

私がこの作品で一番恐怖を感じたのはこの「同化」できるという設定。

姿かたちどころか、会話も普通にできて簡単には区別できない。

この設定により、こういった作品にあるモンスターに襲われるという単純な恐怖だけではなく、隣にいる人間も信用できないというより強い心理面での恐怖を生み出している。

そのため、たとえ「物体」が画面に映し出されていなくても、常に緊張感が漂っていて見ていて大変面白かった。

 

巨大な「物体」や盛大な爆発シーンを経て、基地は燃え上がり、最後に2人だけが生き残る。

そして、この2人が互いに声を掛け合うところでこの作品は終わる。

最後の2人のどちらがが実は「物体」なのだ、とか言われているらしいが、個人的には2人とも人間であってほしい。

どちらにせよ、ここで彼らは終わりなのだから。

 

原作は昔の小説で、この映画自体もかなり昔に作られている。

だからこそ、単純に恐ろしい映像を映し出すだけでなく、推理的要素も含んだストーリーになっているのだろう。

単純な恐怖だけではなく、もっと深い恐怖。

こういう作品は見ていて面白いな。

 

そういえば、なぜ南極の観測基地に火炎放射器とかがあったのだろうか。